近所の公園の桜が、2日前に開花しましたが、残念ながら昨日、今日の冷え込みで未だ2分咲程度です。
曇空では映えません。 やっぱり、桜は青空の下でないと映えません。
(2023.3.25 撮影)
近所の公園の桜が、2日前に開花しましたが、残念ながら昨日、今日の冷え込みで未だ2分咲程度です。
曇空では映えません。 やっぱり、桜は青空の下でないと映えません。
(2023.3.25 撮影)
白髪岳と松尾山の山裾に建ち、春は桜・フジ、夏はアジサイ・ハス、秋は紅葉と四季折々の花々が楽しめる
松尾山「文保寺」(ぶんぽうじ)
「縁起」
文保寺は、大化元年(645年)に法道仙人(ほうどうせんにん)によって開かれ、自作の聖観世音菩薩を本尊として安置し、聖備山長流寺(しょうびざんちょうりゅうじ)と称されていました。
法道仙人は、印度より中国を経て日本に仏教を伝えたと云われ、瀬戸内海を経て加古川上流域の播磨・丹波地方を中心に200ケ寺以上の多くの山岳寺院を開かれており、特に天台真言系の寺院が多くなっています。
「最盛期」
文保寺は、最盛期には堂舎21坊を数えたと云われ、元禄6年(1693年)の寺社改帳には、自光院、龍花院、真如院、観明院、一乗院、源智坊、行定坊、吉祥坊、西教坊、常光坊、中蔵坊、教蔵坊、善光坊、宝住坊、本性坊、本仙坊、泉蔵坊、山本坊、極楽坊、持正坊、理教坊の5院16坊があったと記されています。
「荒廃〜再建」
開基より聖備山長流寺と称されていましたが、天暦の乱(947年)に堂舎悉く焼失し、荒廃の極みに至ります。正和年間(1312~1317年)花園天皇の御代に慈覚大師作という千手観世音菩薩を安置し再興されました。文保年間(1317~1319年)宝鏡寺の宮門跡一品親王真筆の勅額を下賜されて以後、「文保寺」と称します。
「戦国時代〜再び荒廃」
その後、堂舎も整備され、往時の状態に復したようですが、戦国時代末の天正年間(1573~1592年)に明智光秀の丹波攻めに遭い、再び全山悉く灰燼に帰しました。
「再復興〜現代」
江戸時代中頃になって復興、真如院、大勝院、観明院、本覚院、林城院、慈明院の6院となり、現在は、真如院、大勝院、観明院の3院となっています。
文保寺の石標と二村神社の鳥居。
文保寺の楼門
鎌倉の建長寺を模して建立されたと伝わるが、当初の門は天正年間(1573〜1592年)の戦乱の際に焼失したとされる。
現在に伝わる門は再建されたもので、天正末期と考えられる。下層部は大正14年に改修されているが、上層部には彩色の痕跡が見られるなど、再建時の部材が残されています。
建築様式は、楼門は三間一戸で、屋根は入母屋造の銅板葺で、肘木は禅宗様であるが、全体として和様を基調としている。
室町時代末期の様式を現在によく伝えています。
正面に幽門と二村神社の第二鳥居が見える場所から、寺と神社の境内が分かれます。
裏側から見る
大勝院を横手にどんどん上がっていきます。
檜の巨木を見ながら参道を行きます。
春の訪れを告げるフキノトウ
本堂と楼鐘
本堂正面に繊細な彫物がこれだけあるのは珍しい。
扉の彫物も素晴らしい。
本堂の右側に建つ
法道仙人供養宝塔
今年も隣宅のサクランボがなる桜が、ここ数日の陽気で一気に満開になりました。
(昨年の画像)
花が散った後は、真っ赤に熟した美味しいそうなサクランボが枝一杯になります。
晴れの日が続く上、気温も上がり、いい気候になり過ごし易やすくなりましたが、反面、厄介な花粉とPM2.5が大量に飛び、私も含め花粉症の人にとっては大変な状況になっています。これに黄砂が飛来すると思うと、本当に憂鬱な気分になります。
山々も霞んでいます。
六甲山系
羽束山
公園の桜の開花は、まだ先のようです。
「ひょうごの巨樹・巨木」
天満神社の境内にある
巨樹「宮田の五葉松」(別名:ヒメコマツ)
・幹周/資料によっては、約1.4m又は約4.0m
・樹高/約5.0m
・枝張り/約12m
・推定樹齢/不明
地元宮田地区の手厚い保護を受けて、強い樹勢を保ち続け、その枝葉を現在も広がっている。
葉は針状で、五枚ずつ束になってつく。雄雌同株で、5月頃若い枝の基部に雄花、先端に雌性球花を付ける。
和名の五葉松は、五枚の葉をもつマツの葉から名付けられた。
崖の上から下へ傘を広げるように枝を伸ばしている。広がった枝は氏子が棚で支えられ、樹勢もすこぶる良い。とても一本の木とは思えない。
壮観な五葉松である。
タコの足のよう。
根元を見るとやっぱり1本の樹木。
根元も異常な形態。
1本の大枝幹が、根元から地面を這うように真横に伸びている。
さすがに支柱がないと無理。